

このたび、fundnoteに新たなファンドマネージャーとして、業界歴20年のプロフェッショナル 神谷悠介(かみや ゆうすけ) が参画いたしました。
新ファンドの戦略やローンチ時期については、現時点ではまだ詳細をお伝えできません。しかし、47歳・2児の父である彼が、なぜ大手の安定を離れ、fundnoteを選んだのか。
ベテラン・ファンドマネージャー神谷の分析力は如何にして培われたのか。
本noteを通じて、神谷悠介という優れたファンドマネージャーが世にいること、そして彼の魅力が少しでも皆様に伝わりましたら、幸いでございます。
─── 出身地や学生時代について教えてください
出身地は東京・中野です。父が転勤族だったため、東京・落合から愛媛・松山、東京・市ヶ谷、愛知・名古屋を経て、最終的に中野に戻るまで、いくつもの学校を転々としていました。
そんな中でも小学2年の頃から少年野球チームに入り、中高まで野球を続けました。当時は「水を飲んではいけない」という指導が当たり前の時代で、何度も熱中症になりかけました。練習中、校舎の周りをランニングしているときに前後を確認して列からフェードアウトし、神社の落ち葉が浮いた水を口にしてしのいだこともありました。
高校時代は軟式野球部に所属。厳しい指導者もおらず、選手だけで運営しているような自由な部活でした。
大学に入ってからは、競馬に熱中しました。頻繁に競馬場へ足を運んで観察を続けたり、騎手の方と交流したりしながら、徹底的に競馬の分析を追求していました。
─── 競馬を通じて養われたスキルや視点はございますか?
本質的に、競馬の分析は株式運用と非常に近いと感じています。
大学時代は、各競馬場ごとのタイムをエクセルに入力し、独自のスピード指数を作成していました。これは、株式投資で言えば「定量分析」にあたり、数字の裏にある傾向を見抜くための作業でした。
加えて、専門チャンネルで放送される全レースを録画し、週刊競馬ブックの騎手コメントと照らし合わせながら一つひとつ検証しました。例えば「一時的に不利を受けていないか」を確認するのは、株式投資でいう「一過性の損益を除いて本質的な企業価値を見る」ことに通じます。また、「左回りでは結果が出ないが、右回りなら力を発揮できるのではないか」といった見方は、外部環境が変われば企業の業績も変わる、という考え方と同じです。さらに、「気性の荒い馬を騎手が強く抑えたせいでタイムが伸びていないのではないか」という分析は、企業会計で利益を意図的に抑えているのではないか、という視点に近いものでした。こうした検証を繰り返すうちに、自然と投資分析と同じ思考プロセスを身につけていたのだと思います。
現場に足を運ぶことも大切にしていました。週末は東京や中山の競馬場でレースを観戦し、月曜はフリーになった騎手が主催する野球チームに参加して、吉祥寺周辺で一緒に試合をすることもありました。さらに水曜や木曜には茨城県の美浦トレーニングセンターに通い、早朝から調教を見学。昼食をファミレスでご一緒し、その場で週末の乗り馬依頼の状況や、レース後のリアルな感想、騎手同士の関係性といった話を聞くことができました。夜はそのまま美浦村で野球をすることもありました。
データで得られる分析結果に加え、こうした「現場でしか聞けない生の声」に触れられたことは大きな財産でした。株式投資における企業取材と同じで、数字や資料から見えるものと、現場で得られるリアルな情報の両方を組み合わせることが、判断の精度を高める。その感覚を学生時代の競馬分析を通じて学びました。

─── ご経歴を簡単に教えてください
新卒で安田火災海上保険株式会社(現・損害保険ジャパン)に入社し、岡山支店津山支社で4年間、損保営業を経験しました。この頃から個人で株式投資を始め、金融市場に強い関心を持つようになったことが、後に本格的に運用の道へ進むきっかけとなりました。
2005年7月に社内FA制度を利用して本社グローバル運用部に異動し、国内外の社債運用を担当しました。約1兆円規模の残高を管理し、国内社債や米国社債の自主運用に携わるなかで、2008年のリーマンショックを経験。保有していたリーマンブラザーズ債を破綻前にすべて売却し、数十億円規模の損失を回避できたことは、私のキャリアに大きなインパクトを与えました。
2011年からはSOMPOアセットマネジメントに出向し、翌年より日本株の運用を開始。保険、証券、その他金融から、住宅、建設、ゲーム、インターネット、総合商社、電力・ガスと幅広い業界をカバーしました。欧米の自動車、投資銀行、通信など海外株も担当し、海外の視点を取り入れた分析にも力を注いできました。ファンド運用では、公的年金を中心に、数百億円規模のESGファンドを任されるなど、資産形成に向けた取り組みに携わってきました。
─── 損保営業時代、株式投資にはどう取り組まれていたのでしょうか
新卒で最初の配属は岡山支店津山支社でした。首都圏に残れると思っていたのですが、縁もゆかりもない土地に飛び込むことになり、最初は戸惑いました。
営業としての日々を過ごしながら、給料やボーナスを元手に株式投資を始めました。仕事を終えて帰宅すると、四季報や会社情報、チャートブックを深夜まで読み込み、エクセルにまとめて分析するのが日課。寝ても覚めても株のことを考えていたと言っていいほどでした。実際、お客様とも保険の話よりも株式投資の話をしている時間の方が長かったように思います…
振り返ると環境にもとても恵まれていました。所属していた支社長や大手代理店の担当者、さらには税理士事務所の職員さんまで証券会社出身者が多く、自然と話題は株に集中しました。特に税理士の方が趣味で経営していたレストランに通い、夜はそこでレバ刺しを無料で食べさせてもらいながら、チャートを広げて株価討議をする、そんな日々は私の投資家としての原点とも言える体験でした。
もちろん営業としての成果も残しました。地域を代表する食品企業の保険契約を一気に切り替えたり、税理士代理店での生命保険販売を大きく伸ばしたりといった実績が評価され、全国の優績者会議に最年少で呼んでいただきました。営業を通じて地域に根ざした情報や人とのつながりの大切さを学んだことも、今の投資活動に活きていると思います。
こうした経験を重ねる中で、「せっかくなら株式運用を本業にしたい」という思いが強くなり、本社グローバル運用部への異動につながりました。
<グローバル運用部への異動後のストーリーは、第2部のnoteで詳細に迫っていきます>

第1部ここからは、神谷さんのよりプライベートな部分に迫っていきます!
まずは…!
─── ズバリ!プライベートではどんな人?
妻からはかなり厳しく「人の話を聞かない」と言われます。
「いついつに何があるから、予定を空けておいて」といった話はことごとく忘れています。そういった話を聞いている最中、もしくは直後に「この銘柄はGoogleトレンドで商品名を検索したら業績予想に役立たないか?」とか、「そういえば、この会社の納入先の在庫ってどうなっているのだろう?」とか、「こういう業界データで取れないかな?」とか、話と全く関係ない株のことが頭をよぎってしまいます。
とにかく株への情熱はいつ何時も冷めることがありません。
休日は子どもが入っている少年野球チームのコーチをしています。
自分の子どもに限らず、チームの子供たちが練習の成果を試合で発揮してくれたときは嬉しいですね。
試合の動画は他のお父さんにYoutubeにアップしてもらっているのですが、自分の子どもがホームランやヒットを打ったタイミングをメモしていて、仕事の合間に何回も繰り返し見て、活力を貰っています。
チームも区の春の大会で3位に入るなど徐々に強くなってきており、この秋の大会でどこまで行けるか楽しみです。

───「安定を捨て、fundnoteを選んだ」ご家族への想い
大手の運用会社から、スタートアップへ行くことに、不安や心配を私には見せずに抱えているかもしれません。
それでも10年後、20年後に今を振り返ったとき、大切な家族から「あの時、fundnoteに入る決断をして良かったね」と言ってもらえるような成果を残していきたいと考えています。
そして、「たとえ歳を重ねても挑戦することを恐れず、一歩を踏み出す父の背中」を、子どもたちに示していきたいです。